JUFA 全日本大学サッカー連盟

社会貢献
ガーナ代表監督・アヴラム・グラント氏の講演会を開催
2016/05/24
 一般財団法人全日本大学サッカー連盟では、昨年8月20日(木)~8月27日(木)に『キッズ ピース(Kids Peace) 少年少女 サッカー・童話 交流プログラム---世界恒久平和を少年少女に託して---』を実施。イスラエルとパレスチナの子どもたちを招待して日本の子どもたちと交流を行いました。

(詳細:http://www.jufa.jp/news/news_kids_peace.php

 その際にご協力いただいたイスラエル大使館よりお申し出があり、現ガーナA代表監督でイングランドプレミアリーグ所属のチェルシーなどでの監督歴を持つアヴラム・グラント氏の講演会を行う運びとなりました。

 以下、アヴラム・グラント氏講演会の概要と、講演会の【第1部 ホロコーストについて】の内容の抄録となります。

 講演会には多くの学生が参加し、アヴラム氏のご家族が歩んだ壮絶な過去とその経験に聞き入っていました。また第2部では、アヴラム氏が指導した多くの強豪チームや有名選手を引き合いに話が展開。講演会の最後には、多くの質問が飛びました。


アヴラム・グラント氏講演会

日 時 : 平成28年5月6日(金)18:30~
場 所 : JFAハウス4階 会議室8.9.10
内 容 : 1部 ホロコーストに関して
      2部 サッカーに関して


   【第1部 ホロコーストについて
     ――ホロコーストサバイバーの父の生き方】


 昨日の5月5日*1はホロコースト追悼の日でした。迫害されたユダヤ民族が開放された記念日です。ホロコーストとはナチス・ドイツがユダヤ人を迫害し大虐殺したことを指します。私はイスラエル生まれのユダヤ人で、父の家族はポーランド出身のホロコースト被害者で、父はホロコーストサバイバーです。このことについてお話をします。

 第二次世界大戦中ナチスにより約600万*2のユダヤ人が虐殺されました。その多くの人々は強制収容所に送られガス室などで殺されました。第二次世界大戦は1939年に始まりましたが、ナチスの占領が始まった1936年、祖父は家族とポーランドから逃げる決心をしました。この時代は勿論インターネットはなく新聞やラジオからの限られた情報だけしか得ることのできない状況で、なぜ祖父は妻と私の父を含む10人もの子供達を連れて代々住み慣れた土地から逃げようと思ったのか、私には最初は理解できませんでした。しかし、それがなぜだったのか今日皆さんにお話しできます。

 その2年後の1938年、祖父の兄弟とその妻、5人の子供達は、強制収容所に連れていかれ殺されました。戦争が始まる前の話ですが、すでにナチスによるユダヤ人への迫害が始まっており、それが大虐殺へと進んでいったのです。その当時、祖父は「強制収容所」が何か分かっていませんでした。それでも約2年の間大家族を連れてポーランド国内を転々とせざるえなかったのですが、それがどれだけ大変なことか皆さんは想像がつくでしょうか。この2年間で多くの人々が抵抗運動の中死んでいきました。*3そしてたくさんいた祖父の兄弟・親戚は一緒にいることができずみんなばらばらになってしまいました。数年前に探し当てたのですが、祖父の兄弟の内2人は強制収容所アウシュビッツ(絶滅収容所)で殺されました。ここでは約120万のユダヤ人が殺されています。この当時、ナチスはユダヤ人がロシアに逃げていくことは見逃していたので、祖父と家族とその他多くのユダヤ人家族は、北のロシア*4へ向かいました。家族の中には多くの小さな子供たちもいました。しかし先ほどお話した通りこの時期にヨーロッパ各地で600万ものユダヤ人が虐殺されています。3週間もの過酷な列車での移動を経て1940年9月にロシアの冬は気温-40°にもなる極寒の地に降ろされました。

 私は2009年に初めてそこに行きましたが、本当に何もない場所で、今ではヘリコプターでしか行けない遠い北の荒涼とした大地です。到着から1ヶ月後に父の姉の14歳の女の子が、やっと口にできた食物の毒に当たって死にました。寝る所も食物も殆どなく体力のないものから倒れていきました。祖父は翌年(1941年)1月、寒さと飢えで50代の若さで死にました。その5ヵ月後に同じく寒さと飢えにより祖母が、そしてまた1ヵ月後は別の兄弟、姉妹と次々と家族が死んでいきました。その時まだ13歳の子供だった父は、苦しみながら死んでいく両親、家族を見てもなすすべもありませんでした。父はそれから約3年半、今考えてもどのように過ごしていたのか想像もつきませんが、たった1人厳しい環境の中で生き残りました。戦争中を含め600万の人々が亡くなったわけですが、悪いことは何もしていない普通のユダヤ人がナチスによって殺されました。ナチスは全てのユダヤ人を殺害しようと企てユダヤ人の数は減っていきました。ホロコーストは人類歴史上、最も悲惨な出来事と言われています。家族や愛を大切にしていた人々が、ただユダヤ人だという理由だけで大虐殺されたからです。私はここで自分の家族の話をしましたが、600万もの人々が私の家族と同じような目に遭ったのです。ホロコーストが起こった原因はナチスや戦争だけではありません。それまでの長い歴史の中でユダヤ民族は迫害され続けてきました。

 1944年に戦争が終わり幸いにも父は助かり、ロシアからヨーロッパへそしてイスラエルへやってきました。2009年に父は亡くなりましたが、生前に「どのようにして約4年間、食べ物もない-40°の日々を生き抜いてくることができたのか」と聞いたことがあります。その時父は、「覚えていない。ただただ食べ物を探しながらその日を生きた。」と言いました。これは個人の物語でもあり、この時期に生きた全てのユダヤ人の歴史でもあります。

 このように非常に悲惨な状況の中を辛うじて生き延びてきた父ですが、一度も誰かを恨んだり復讐を企てようと思ったことはないそうです。いつも楽観的で明るくて心の優しい父でした。しかしある日、毎晩父が眠りながら大きな唸り声をあげ苦しんでいることに気づきました。その無意識の中の父の苦痛は、ポーランドやロシアにいた時の経験からくるものでした。それは私の知っている穏やかで前向きな父の姿ではありませんでした。

 過去の記憶と常に生きていくのは辛く嫌な事ですが、一方で過去に起きたことを知るということはとても大切なことです。
 私が壮絶な父の人生から学んだことは、長い人生の間にはいろいろな局面があるが、苦しみで生きていくのか、前向きで明るい気持ちで生きていくのか、自分の人生は自分でつかみ取っていくことが何より大切だ、ということでした。

 そしてこれが今日、若い皆さんにもお伝えしたいことです。

 「人生の中で非常に苦しいことが起きた時、それが自分ではどうしない理不尽なことだとしても、ただ苦しみや恨みの中で生きていくのか、それとも前向きにとらえて積極的に日々を過ごすのかを考えてほしいということです。どのように蹂躙されても父のように明るく積極的に前だけを向いて生きることもできるのです」。


*注
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1. イスラエルはユダヤ暦を使用しているため、国内でのホロコースト追悼の日(4,5月)は毎年変わる(2015年は4月17日)。国連で制定された「ホロコーストの犠牲者を想起する国際デー」はアウシュビッツ強制収容所が解放された毎年1月27日。無数のマイノリティーの人々も虐殺された。
http://www.unic.or.jp/news_press/info/11945/
2.ホロコースト犠牲者数は600万人が通説。内150万は子供の犠牲者と言われている。
3.1943年、ワルシャワ・ゲットー蜂起、ドイツ軍によって制圧され消滅。ゲットーとはユダヤ人強制(隔離)居住区域。 ワルシャワはヨーロッパ最大規模
4.ロシア内でもユダヤ人迫害は長い歴史がある。ロシア語のポグロムとは、ユダヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為(殺戮・略奪・破壊・差別)の意味をさす。