『第32回 デンソーカップチャレンジサッカー 熊本大会』の開幕前日となる2月15日に、全選手参加の講演会が行われました。講演会のテーマは『「熊本震災と向き合って」-プロサッカー選手としてできること-』。2016年4月14日~16日に断続的に熊本県を襲った大型地震、"平成28年熊本地震"について、Jリーグクラブ・ロアッソ熊本の鈴木翔登選手(流通経済大出身)、八久保颯選手(阪南大出身)、そして事業部の首藤崇氏が、当時の被害の様子や、その中でロアッソ熊本の選手たちがその中でどのように活動したかを説明してくださいました。
まずは熊本地震の様子を報じた新聞や、首藤氏の自宅、ロアッソ熊本の事務局の被害状況の写真などがプロジェクターに映し出され、最大震度7という熊本地震の凄まじさが伝えられました。
当時、ロアッソ熊本は4月17日に京都でアウェイの試合を控えていました。14日に起こった前震の段階では京都で試合をする予定でしたが、16日未明に本震に襲われると、その後は選手が集合することも難しくなったため、いったんチームを解散。ロアッソ熊本の試合はしばらくの間、延期という処置がとられました。
当時の様子について八久保選手は「当時は益城町に住んでいたのですが、ちょうどソファに座ってテレビを見ているときに前震がきて。下からドンと突き上げるような激しい揺れでした。その日は余震もあったので学校の駐車場で一夜を過ごしたのですが、周りにはたくさんの子どもたちや高齢者の方がいて、皆ダンボール一枚で過ごしていました。そういう状況に、すごく衝撃を受けました」と言います。
鈴木選手も「家にはいられない状況だったので、近くの公園や小学校に避難したのですが、ああいう状況では、ひとりで避難するより何人かで一緒にいるほうが心が落ち着くんです。まったく知らない人であっても心の拠り所になるんだな、と思ったことを覚えています」と語りました。
ふだんロアッソ熊本が練習をしているグラウンドは、救援活動を行う自衛隊のヘリの発着場になる可能性があるため、練習がいっさいできない状況になりました。ホームスタジアムである『うまかな・よかなスタジアム』(現「えがお健康スタジアム」)は地域の方々の避難所でもあり、警察、自衛隊、消防の方たちの宿泊所、また避難物資の集積場にもなったため、試合が開催できる状況ではありません。
そんな中、4月21日には解散中の選手・スタッフが集合し、今後のことを話し合いました。それまでには「チームごと安全な場所に移ってこないか」という、全国のサッカーファミリーから受け入れの提案もありました。安全な場所でプロとして試合に備えるのか、それとも被災地である熊本に留まるのか――。選手だけでミーティングを行い、出た結論は「十分な練習はできなくても、この熊本を離れるわけにはいかない」。選手たちの「限られた環境の中で練習をし、熊本の人たちに寄り添いながらリーグ戦が再開されるのを待ちたい」という気持ちを、クラブは尊重することにしました。
「正直、この結論も簡単に決まったわけではありません」と言うのは鈴木選手です。「自分たちはサッカー選手です。サッカーで喜びを分かち合うために存在しているのだから、ほかの地域に移ってでも試合に備えたほうがいいんじゃないか、という選手もいました。けれど、最終的には熊本出身の選手の意志を尊重しよう、ということになりました」。
一方、熊本出身の八久保選手は「僕はサッカー選手ですが、ひとりの大人として考えたときに、やはり家族がいちばん大事だと思った。長期間県外に出て試合をするより、家族の身を守りたいと思いました」という考えをもって、話し合いに臨みました。
「僕たちは県民の方たちに支えられてサッカーができている。その人たちが苦しんでいるのに、僕たちが熊本を離れるわけにはいかない」(鈴木選手)
そう決断を下した選手たちを、「いろいろ葛藤があったとは思います」と首藤氏は慮ります。
一方、選手たちからある動きが起こりました。きっかけは、この講演の会場となっている『ホテルエミナース』に、家族と一緒に避難していたGKの畑実選手(中央大出身)の一言でした。
「(避難している)子どもたちが退屈しているから、手の空いている方はサッカーで遊びませんか」
選手たちが連絡をとりあうグループLINEでそう呼びかけると、同意する選手が続々と現れ、即席のサッカー教室が実施されました。4月19日に行われたこのサッカー教室を皮切りに、選手たちは自主的に避難所を訪れ、子どもたちとサッカーをするようになったといいます。
「僕たちはサッカー選手。だから、やっぱりサッカーで笑顔を届けたい」(鈴木選手)。
情報収集や用具の運搬、子どもたちへの声かけもすべて選手たちが自主的に行いました。また、全国のサッカーファミリーから送られたきた物資も、選手たちが率先して避難所に運びました。当時チームは、クラブハウス近隣では唯一使用できる、少年サッカー用の人工芝のグラウンドで、午前中だけ練習ができるといった状況でしたが、それを終えると毎日のように1日で3~4ヶ所、またいくつかのグループを作って複数の避難所を回りました。いずれもクラブが主導したものではなく、選手たちが自主的に行ったこと。プロ選手としてというより、いち社会人として行政の方や避難所の責任者の方と対応していったそうです。
地震から2週間後には本格的な練習が再開し、5月15日にはアウェイのジェフユナイテッド千葉戦でリーグ戦も参入しました。しかしホームゲームを熊本県内では行えず、しばらくは柏や神戸、鳥栖での試合をホームゲームとして実施。『うまかな・よかなスタジアム』(現「えがお健康スタジアム」)で本当のホームゲームを行えたのは、地震から約3ケ月後の7月3日でした。
首藤氏が「熊本の選手、スタッフ、そしてサポーターにとって激動の期間だった」という3ケ月間を振り返り、鈴木選手は「サッカー選手じゃなかったらできなかっただろうことを、たくさん経験させてもらいました」と言います。「ボールひとつで、あれだけの人たちが喜んでくれる。僕は、"プロ選手とは"というようなことを話せるような人間ではありません。けれどこの経験をしたことで、熊本にかぎらず被災地に行くことがあれば、自分ができることを精一杯やりたいと思いました」。
一方、八久保選手は自身も阪南大時代に本大会のメンバーに選ばれ、講演会にも参加した当時を踏まえながら「当時はあまり真剣に講演を聴いていなかったのですが、今思い返すと、そこで話されていたことがいかに大事だったかと痛感しています。それをしっかりと感じながらこれからの大学生活を過ごしてほしいし、プロ選手になってからもこの経験を活かしてもらえたら嬉しいです」と、大会参加選手に語りかけました。
最後に、「復興支援活動に"これをやらなければいけない"というものはありません」と語ったのは首藤氏。今も地域の復興のために何をすべきか、自問自答を続けているそうです。けれど「今後もし、地域や災害の問題に向き合うことがあったとき、皆さんには自分のおかれた立場で、そのときにできることをしっかり選んでほしい」と訴えます。
「みなさんもやがて、サッカーボールの向こう、ゴールの向こうにたくさんの方々がいらっしゃって、それぞれに背負っている生活環境があるということがわかってくるかと思います。そのとき、皆さんが自分の力を最大限に発揮してほしいと思います」
講演会は、そんな首藤氏の言葉で締めくくられ、大会参加選手からは壮絶な3ケ月間を過ごしたロアッソ熊本の選手たちに、大きな拍手が贈られました。